6/23/2011

Report of the relief operation/救援活動報告

(下記の報告は、4月2日から4日かけて行った救援活動の報告です。その後も継続的に救援活動を行っていますが、日本語の報告文は、しばらくお待ちください。)
日本聖公会・可児ミッションの相原太郎さんと日本フィリピン協会のエドウィン・グアリンさん、そして私、ネストール・プノの3名から成るサギップ・ミグランテ・ジャパンの救援チームは、2011年4月2日、東北地方での救援活動へ向けて出発した。
私たちは名古屋を正午に出発。津波と放射能のために被災したフィリピン人のグループに会うため、福島県いわき市を目指した。

私たちが携えたのは、おコメ250kg、ポタージュスープやミネラルウォーター、子ども用パンパース、衛生用品、化粧品、衣類その他を梱包したダンボール箱多数。そして、名古屋へ帰って来れるよう、予備のガソリンタンクを満タンにして積み込み、ガソリンスタンドを見つけるたびに給油した。


4月2日午後8時、いわき市

私たちはある一軒の民家に到着。5家族に面会した。その家は地域で暮らすフィリピン人の救援活動のセンターとして機能していた。私たちが面会したフィリピン人は地震と原発事故の被災者だったが、津波の被害を受けた地区から数メートルしか離れていなかったにもかかわらず、運よく家屋は破壊されていなかった。
しかし、住居が原発から20km圏内にあったため立ち退きを命じられ、身の回り品を何も持たずに出てきた女性がいた。これらのフィリピン人女性たちは日本人男性と結婚していたが、夫たちは職を失い、中には賃金が支払われるかどうかわからないまま働いている人もいた。しかし、こうした状況にもかかわらず、女性たちは、子どもの教育を心配して残ることを決めた夫のもとを離れることができず、現地に残ることを決めた。ある女性は東京電力の責任問題について質問し、また、自分たちの状況について政府の職員に尋ねたときに受けたひどい扱いの経験を話してくれた。
彼女の批判は外国人に対する差別が原因ではなく、言葉の壁が障害となって起こる情報の不足が原因だった。政府の発表をフィリピン人が理解できる言葉につなぐことができたら、答えを得ることはできただろう。

4月3日午前0時、福島市
つぎに私たちはいわき市から福島市へ行き、あるフィリピン人と会った。真夜中近くだったため、ほかのフィリピン人たちは私たちに会いに外へ出ることができなかったからだ。

名前をロナルドといい、彼の家は外観を除いて無事で、地震のために家具がいくつか壊れたが、家族は無事だった。しかし、ガソリン不足のため、仕事場への連絡ができず、彼は職を失ってしまった。対策として、ロナルドさんは家族のもとを離れ、当座の生活の糧を得るため、愛知県へ行こうと考えている。ロナルドさんの話を聞いた後、私たちは二本松市に住む5家族分の救援物資を特別に残して出発した。彼の話では、同市は遠隔地であるため、まれにしか物資の供給がないのだそうだ。真夜中だったので、地震の揺れはわからなかった。

次に私たちは岩手県の盛岡市を目指し、午前4時に到着した。カプセルホテルに泊まり、休息をとった。カプセルホテルに泊まるのは初めてだったので、少し興奮し、眠ることができなかった。午前8時にはホテルを出て、盛岡駅前で朝食をとった。

4月3日午前8時、盛岡市
その後、私たちは「ナナイ(お母さん)」という名のフィリピンレストランへ移動した。このレストランは地震と津波で被災して助けを求めているフィリピン人たちの連絡センターの一つで、救援物資の集積場になっていた。受け入れ担当のマロウさん、レストランのオーナーのジュリエットさん、それからフィリピンの子どもたちを支援しているNGOのメンバーの伊藤さんと会った。

私たちの計画は、ここで残りの救援物資を下ろし、名古屋へ戻るというものだったが、私は被災地のフィリピン人たちに会いに行こうと提案した。約3時間で大船渡市に着いた。津波で大きな被害を受けた町だ。まず、エリカさんの家へ向かった。その家も、エリカさんの親戚や、特にお風呂に入ったり、衣類を洗濯したいフィリピン人たちの避難所となっていた。エリカさんは被災者の救援に忙しく、また消防士をしている彼女の夫も救援活動のために忙しく働いていた。6家族分の物資を下ろし、時間の関係で配分はエリカさんに頼んだ。

次に私たちは、岩手国際協会の救援活動を受けているフィリピン人の避難所へ行った。20人以上のフィリピン人と会った。ほとんどは夫が日本人だった。夫が経営していた会社や家屋などすべてを失ったフィリピン女性に会った。その家族はもう生活の手段がないので、夫といっしょにフィリピンへ帰ると決めていた。数家族分の物資を下ろした。特に、子どもの用おむつと衣類だった。

4月3日午後、大船渡市
私たちは大船渡の被害のひどい地区も訪ねることができた。津波が襲うシーンはテレビで何度も見たけれど、実際に被災地の状況を目撃してみるとショックだった。破壊された家屋やビル、仰向けにひっくり返った自動車や船、瓦礫の山から、津波がどれほど恐ろしいものかよくわかる。大船渡に来るのは初めてだったが、この有様を見て、ここでかつて暮らし生活を営んでいた人々がいたかと思うと、本当に心が痛んだ。
私たちの最後の目的は、高台にあるフィリピン女性の友達の家に避難している3家族に会うことだった。この家族は津波の被害の激しい陸前高田から来ていた。そこへ行こうと試みたが、道路は瓦礫のためにまだ閉鎖されていたので、閉まっているコンビニエンスストアで彼らと会った。

私たちが会ったハイディーさんは最初、中東にいる妹から私たちに、行方が分からないという連絡があった。ハイディーさんによると、津波警報が届いたのが遅かったため、猛烈な水の壁は逃げるハイディーさんたちの数メートル後ろに迫っていたという。彼女はどうやって二人の子どもを近くの山へ抱えて行ったかさえ覚えていない。実際、夫は母親の手を引いていて水に流されたが、パイプにしがみついて4時間後に救出された。彼らは最悪の悪夢を分け合い泣いていたが、深い感謝の気持ちを表した。
盛岡からいっしょに付いてきてくれた現地の人たちはみんなの分の食糧を持ってきていたので、バンの中で話を聞きながら分け合って食べた。

今後の活動へ向けて

私たちは午後4時頃出発し、名古屋を目指した。サービスエリアで何度も止まり、そのたびに給油し、運転を交代し、名古屋に帰り着いたのは翌日の午前5時だった。

私たちは被災したフィリピン人のための救援活動を継続したい。この活動を少なくとも1年はつづけたいと考えている。今回の旅行の目的は、仲間のフィリピン人に物資を運ぶだけでなく、被災した全地域へのつながりをつくり、被災者の状況に関する情報を集め、役立つ可能性のある情報を広めることにあった。

供給物資は少しずつ避難所や被災地に届くようになった。しかし、言葉の問題が壁となって、多くの有益な情報がまだフィリピン人に届いていない。サギップ・ミグランテ・ジャパンは今後、東北地方の被災地の復興のために働く他のグループや団体と協力し合い、被災したフィリピン人のための情報センターとして活動を続けるつもりだ。

(了)

上記の記事は、フィリピン情報センター・ナゴヤのニュースレターに寄稿したものです。