被災地における在日フィリピン人住民
6月11日、12日の2日間、岩手県と宮城県の被災地に居住するフィリピン人を訪問した。6月10日の深夜近く名古屋を出発し、6月11日、午前中から午後にかけて陸前高田市の竹駒町滝の里仮設住宅、夕方から気仙沼市を訪問。同市に宿泊した。12日は午前中南三陸町役場、午後石巻市の教会を訪問。合計およそ40名と顔を合わせ、支援物資はおそらく50-60名に行き渡ったと思われる。支援物資はSAGIPが他のNGOなどの機関から集めてきたものである。米、バゴーン、フィリピン産の干し魚、菓子類、といった食品、消しゴムやペン、ランドセルといった文具、国際テレホンカードなどの生活必需品が被災地に届けられた。
この4市町において、少なくとも死者4名、全壊被害を受けたフィリピン人を抱える世帯が45以上あると思われる。被災者は避難所や親類の家、あるいは仮設住宅で多くが暮らしていると考えられるが、フィリピン人住民は、言語や制度の違いもあり、情報が十分に行き渡らない可能性があること、また複雑な行政の手続きによって日本人と同等の機会を持っているとは限らないため、コミュニティ間の相互扶助、情報の共有は極めて重要であると考えられる。情報の発信地として、物質的なニーズに対する支援、さらには訪問を通じてコミュニティ内部の対話のきっかけとなるのであれば、これ以上重要な活動はない。また、わざわざ名古屋から出身地を同じくするフィリピン人が訪問することで、被災したフィリピン人と語らうことも被災した人々にとっては心の休まるひと時であったと思う。
外国人住民特有の問題に、ビザやパスポートを挙げることができるが、パスポートを流された住民はパスポートの再発行の問題を抱えている。ところが、フィリピン大使館はパスポートの再発行は日本で行わないとしていること、また盛岡のフィリピン名誉領事館も閉鎖に追い込まれるといった状態にあり、被災者が大きく取り残されているといった困難を抱えている。SAGIPはフィリピン大使館から情報を収集し、交渉も行っており、その果たす役割は非常に大きい。
被災者としての外国人住民
23,000人以上の死者と行方不明者を出した東日本大震災。今でも約9万人が避難している。被災地では多くの外国人住民も被災している。外国人住民は中国人、フィリピン人が多い。前者は研修技能実習生としての来日も多く、大使館の指示もあってほとんどが帰国したといわれている。また両国からは結婚移民も多い。
陸前高田市、気仙沼市、南三陸町、石巻市の4市町でわかっているだけで4名のフィリピン人が亡くなっている。フィリピン人住民のうち自宅住居の全壊被害を受けた者は、陸前高田市では24名のうち17名、気仙沼市では32人中12名、さらに南三陸町では15名中10名にものぼった。こうした被災者はパスポートも失っていることも多い。後述するが、パスポート再取得の大きな問題を被災者か抱えている。
避難所から仮設住宅への移動、突然の失業、夫や子どもの死は彼女らに社会的な孤立をもたらした。インフラの整備はもちろんだが、コミュニティ内のサポートがこれほど重要になっているときはない。フィリピンコミュニティが、それぞれ助け合いながら避難所生活を早期に終わらせた感がある一方で、フィリピン人や他の外国人住民に対する差別的なまなざしが発生しているとも伝えられている。あるフィリピン人被災者は、避難所から仮設住宅への移転が決定した際、日本人から「外国人だから」「マスコミに取り上げられたから」といったまなざしを受けたと伝えている。また、外国人住民に特化した支援も増加しているといわれている。これが地元日本人住民の嫉妬を招いた可能性もある。どういった差別的まなざしがあり、何が原因なのかを明らかにする必要があるであろう。特に、今回の被害からの物理的・心理的回復は長い時間がかかることが予想されるため、場合によっては他の支援団体との調整や支援の在り方も再考されることが必要かもしれない。
住居の被害など直接に物的な被害を受けた岩手県・宮城県沿岸の外国人住民と、物的被害はないものの、原発によって被災した者の間でも異なる事情が存在するかもしれない。こうしたことはこれから明らかにされなければならない。
また、フィリピンコミュニティ内における支援物資の配分のあり方についても課題が残る。フィリピンの文化・習慣にのっとった平等な分配が内部の亀裂を招かない最も良い方法であると考えることもできるが、被害の度合いやニーズに応じて分配しないことは、ある意味においては非効率的な支援ということもできる。コミュニティの安定性という観点からは仕方ない面があるが、こうした問題点を指摘することができる。
事例1
人口約16万人で多様な産業が存在する石巻市を除けば、今回訪れた他の3市町村は漁業や水産加工業に産業が特化していて、多くのフィリピン人の家庭もこうした産業にかかわっている。東北の漁村では、全国の平均的な人口分布に比べ20代から30代の人口が極端に少ない。皆、都市部に出てしまうからである。そんな中、20代から40代という若い世代のフィリピン人が地域に根差していることの意味は大きい。
以下は気仙沼市に住む女性Aさんの地震当日の話だ。Aさんは津波警報を聞いて車で高台の駐車場に逃げた。途中、今回の震災で犠牲となったフィリピン人とすれ違っている。ここなら大丈夫と思って止めた駐車場では津波を回避することができず、しばらくして前からも後ろからも波が迫ってきたという。そのうち車体が浮き始め、流されるままに車が「クルクル回った」。車中で彼女はパニックに陥り涙が出てきた。しばらくして車が誰かの家にぶつかり、壁と壁に挟まる形で停止した。上を見ると家の窓から人が顔をのぞかせていたが、危険で助けてくれない。しばらくして津波が最高に達し、流れがおさまった。家の人が掃除機のコードやらロープやらを垂らして登って来いという。しかし、車の中はすでに浸水し、ひざまで水が来てドアは開かない。家の人が後部座席の窓が割れていることを教えてくれた。おそらく家の壁にぶつかった際に割れたのだろう。水の高さは2階まで達していて、おそらく水深3メートルのところに浮いている。彼女は泳ぐことができないが、勇気を振り絞り後部座席から出た。とはいえ、ロープにつかまるためには、浮いた瓦礫を歩いてロープまでたどり着かなければならない。思い切って瓦礫の上を歩き、ロープをつかみ、3階に上がることができた。その家の人は、彼女に着替えを出してくれ、布団にくるまり暖をとった。一度だけメールを送ることができ、家族には無事を伝えることができた。翌日、自衛隊に救助され家族と再会した。車も職も失ったが、生きているだけでミラクル(奇跡)だったし、押し寄せるあの水は「悪魔の黒い水」と彼女は言う。彼女はたまたま車が家にぶつかっていなかったら今頃どうなっていたかわからないと話していた。
事例2
Bさんは南三陸町に住んで31年が経つ。この場所に嫁いだ初めてのフィリピン人だ。彼女にとって当初5年間はこの町で暮らしていくことは容易ではなかった。彼女が日本語をわからないと思って悪口を言われたこともあった。することなんでも噂の対象になり、かつてはつらい思いをしたという。そんな彼女は今や学校で補助教員となっていた。
震災当時、南三陸町に住んでいたフィリピン人は16名。全員配偶者である。うち1名は死亡した。彼女はマニラ出身で、夫もまだ行方不明となっている。彼女の遺体は津波から40日後、土砂に埋まった形で見つかった。写真を見て彼女だと判断したが、家族でない者の証言だけでは死亡は証明されない。夫も行方不明なので、DNA鑑定を行った。彼女の家もすべてが流されているが、職場の遺品からの鑑定により彼女が特定された。彼女は日本に来てまだ2年目だった。南三陸町におけるフィリピン人負傷者は1名。自宅全壊は16名中10名だった。
地震が起きたとき、彼女は日本人と外国人の間に生まれ育った子どもの通う小学校の特別クラスで教えていた。津波のことはコミュニティの災害通信システムで知った。最初の5-6日は歯も洗わなかったし、着替えも、もちろん風呂にも入れなかった。その後からは、義理の親の家に住んでいる。1か月後に初めて自衛隊の簡易風呂に入った。水はまだ通っていない。現在でも井戸水を洗濯に使用している。
彼女はもう2か月間ボランティアをしている。被災した当初、何もしなかったし何もできなかった。彼女の家も志津川駅の前で全壊となった。トイレのタイル以外は何も残っていない。ただ、何もしていないと失ってしまったものすべてのことを考えてしまうので、何かしなければと思うようになった。それで彼女はボランティアになった。今は毎日が忙しい。フィリピン人被災者の調整をするのも彼女の仕事だ。死亡したフィリピン人に対しては、死亡の鑑定に立ち会ったり、DNA鑑定にも協力してきた。(臍帯(へその緒)、電気カミソリ、歯ブラシ、ヘアーブラシ、煙草の吸い殻などにより可能である。)彼女は大使館と連絡を取り、火葬などの費用をねん出するようにお願いした。しかし、大使館はお金がないということで、市と掛け合い、火葬を市の負担でしてもらった。遺骨はフィリピンに帰国する友人に持ち帰ってもらった。(注、町は(1)棺(一式)、骨箱・骨壷費用(2)火葬費用(3)遺体搬送費用(4)遺体保管費用(ドライアイス代、安置室保管料等)などの支援を行っている。)
大使館はパスポートを再発行してくれないが、トラベルドキュメントを発行してくれ、それで帰国することができる。しかし、彼女達はトラベルドキュメントでフィリピンには帰りたくないという。というのも、フィリピンでパスポートを新たに取得することがいかに大変かをよく知っているからである。長い準備期間とお金がかかる。また申請者は東京の大使館で面接を受けなければならない。これが問題である。南三陸町からだと日帰りが難しいので、東京で宿泊しなければならず、余計にお金がかかる。大使館は面接をしてくれるが、それですぐにパスポート再発行されるわけではないのである。
フィリピン人だけの問題ではないが、顕在化しつつあることに雇用の問題がある。気仙沼市を例にとると、ほとんどのフィリピン人住民はふかひれ、開き、わかめなどの水産加工に従事してきた。中にはアワビ、ウニなどの漁業に従事している者もいる。しかしながら、現在は海が瓦礫で覆われているため、少なくとも3年間は漁ができないといわれている。こうした職は地元の若者が従事しなくなった業種であり、彼女らが果たす社会・経済的役割は大きい。水産加工は漁業が壊滅的な被害を受けても輸入物で対応可能だが、原料を保管しておくための冷蔵庫がすべてやられており、すべてのフィリピン人が職を失ってしまった。
職探しが困難を極める中、彼女たちがいま着目しているのが介護(ホームヘルパー)である。意外なことに、これらの地域では介護職に就いているフィリピン人は少ない。介護施設では中国人配偶者が多く働いている。職を失った彼女たちは外国人向けのホームヘルパー資格講座が始まると聞き、末永く働ける場として期待している。ただ、都市部と異なり、東北では外国人向けの就業支援に乏しい。外国人向けに介護の講座を行っているのは東京、太田、名古屋、新潟などごく少数であり、地方に住む人々を対象としたものはかなり限定されている。
外国人特有の問題が、喪失したパスポート再発行の問題である。フィリピン大使館によると、パスポートの再発行には実家まで戻る必要があるとされる。経済的に帰国できる余裕のある家庭はほとんどなく、パスポートを紛失したままで滞在が長期化し、後で問題となることが想定される。
また、国際機関が一時帰国の支援制度を準備していたようだが、家族を抱えている被災者は家庭生活を取り戻すことに精いっぱいで、震災直後緊急帰国できる状態にはなかった。皮肉にも被害をあまり受けなかった者の帰国がスムーズであった。ようやく落ち着いてきた被災者が今申し込むと、手続きが遅いという理由で断られるという。被災が深刻なほど支援が受けられない状況がみられる。ちぐはぐな支援体制は、非常事態におかれた当事者に関する現状認識が足りないことの貧困に由来している。
支援の難しさ
私たちが陸前高田市の仮設住宅で支援物資を配布しているとき、同じ仮設住宅に住む日本人住民が何をしているのか様子を見に来た。フィリピン人を対象に支援物資を運んでいますと答えたが、察した限りでは支援物資があるのではないかという期待があったようだ。 (ただし、SAGIPのNestor代表によると支援の対象をフィリピン人に限っているわけではない)。支援の対象をどこまで広げるのか、あるいは対象者を絞るのかは難しい問題かもしれない。しかし、ある日本人の非営利組織による支援の場合、フィリピン人に特化した支援では他の日本人との亀裂が生じる懸念があるとして、対象者を区別しない支援が求められているとしており、支援のあり方の難しさを物語っている。
地域によって被災状況は大きく異なるが、このことも支援のあり方の難しさを教えてくれるものである。例えば、陸前高田市は居住可能面積の多くの割合が被災地域となっており、被災した人々の割合が高い(表)。特に、市内は全壊被害を受けた住居の割合がさらに高くなっている。ところが、気仙沼市においては標高差により数十メートル離れたところで、全壊とまったく被害を受けない世帯に分かれる。さらに石巻においては市街地が大きいため、震災の被害が大きな地域と、そうでない地域では温度差があり、一様では全くない。
また、原発被害を受けている福島県と地震や津波による直接的被害を受けいている地域でも、支援のニーズは大きく異なっている可能性がある。今回のように直接的被害を受けた沿岸部では、生活再建が最重要課題であることから、どれだけ被害を受けても被災地を離れるわけには簡単にはいかない。他方、原発事故は外国人住民の帰国といった流動性を高めたと思われ、異なった状況になっていると考えられる。
外国人住民の動向
出入国関連統計資料によると、中国人の場合、外国人登録の手続きを取って被災地から出たとみられる場合が多く、これは研修・技能実習生と考えられる。また、フィリピン人の場合にはその割合が低いが、これらは家族を形成し地域に定着していることと関連すると考えられる。福島に関して言えば、地域を離れたとみられる割合が高いが、これは地震や津波による直接的被害が少なく、原発事故に起因する一時避難と関連していると考えられる。ただ、外国人登録証は人々の移動を示す確実な根拠とならないため、実際には流動性はもっと高い可能性もある。